昭和50年03月28日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知  らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであっとい  うことがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 あれもおかげであった、是もおかげであったと解る様になる。解る様になると言う事。どういう信心をさせて頂いたら解る様になるか。愈々真の信心を目指さなければ、あれもおかげであった、是もおかげであったという様な事はわからない。みんなそれぞれ願い事があってお参りする。だからお願いをしておかげを頂けばおかげと思い、思う様にならなかったらおかげでないと思う。
 これは初歩の時誰でもそう思います。そこから信心を頂いてお願いをする、おかげを頂く。いわゆる願う氏子におかげを授けと仰せられる、そのおかげを頂いて矢張り神様じゃなぁとわかる。だからそこらへんの所で一生グズグズしておるという、低迷な信心が多いようです。お願いをすれはやっぱりおかげを頂く。又頂かん事もある時には、頂ききらんじゃったと。自分の信心が足りぬからじゃと、一段と信心を進めて行けばよいけれども、一段と進めない。
 それでいて矢張り金光様の信心じゃと、もう何十年しとりますと言った様な事では、いつまでたっても本当の信者と仰る、本当の信者になる事は出来ん。次には一生懸命にお願いをする。その為に修行もする。朝参りも一生懸命続ける。私は何というても、金光様の信心は朝参りからです。いうなら朝参りの信心が出来ずして、本当の信心が分ると言う事は、まずないと言うても過言じゃないと思うです。
 第一金光様の御信心は、朝の清々しい一つの神気とでも申しましょうか、冷気に触れなければ金光様の御信心はわからんです。本当です。どんなに理屈がわかっておっても、朝参りが出来ずに、詳しゅうなっとる、おかげ頂いておると言うても、本当の信者にはなれないです。そのように金光教の信心は朝参りと言う事、朝と言う事が大事に感じれるようにならなければ、金光様の信心の有難さは解らんです。
 是は本当にそうです。金光教の信心は、お参りの姿勢と言った様なものを、ここに持ってこなければ、本当の金光教の信心はわからんと思うです。是はどうでも本気でそれが身につく。朝の一時と言う又その道中に皆さんが感じられる清々しさというか、神気朝の冷気に触れて来るという事が大事です。例えばそういう信心をさせて頂いて、願いある事を頼むわけです。どうぞああして下さい、こうして下さいと言うて願うのです。そして一生懸命願わせて頂いてです。
 例えば福岡の川上さんではないですけれども、二年がかりで二番目の息子さんが、今度大学に行くようになりました。けれどもそれも本命ではない。本命はどこまでも九大を願っとりましたけれども、福大の方に行くようになりました。二年間福岡から朝参りをしてきたと言うのですから大した事ですよ。しかもその行き戻りに合楽示現活動始まるるや、日に五人六人お話をしない事はないです。
 最近では評判になっから同じ時間にバス電車に乗る人は、今度は求めてお話を聞きに来られると言った様な信心を続けて、そして願い通りにはならなかったわけです。二年かかりです。私は二年がかりで朝参りをさせて頂いたけれども、おかげ頂ききらじゃったというような事では、私は信心の値打ちはないと思う。川上さんの信心の値打ちは、それをおかげとして一家中がです、今奥さんが御主人のお父さんが具合が悪いから、今そちらの方へ介抱に行っておられます。
 代わりに西岡先生に毎日のお日届けのお願いをしておられたけれども、二日目位から御主人でも毎日参って見えますお勤めに出られる前に。そりゃ家内があげん喧しゅう言うけん一生懸命参った。それでもおかげ頂ききらじゃった。お前が言うこつもあんまり当てにならんと、例えばどうしても中心は奥さんですから、そういうふうに言われる所ではなくてです、最近は御主人の示現活動の方が本格的になって来たという感じです。勤めの先で自分の出られる所で、お話をしておられるのを聞かせて頂いてそう思うです。
 お願いをして右と願って左になったという、その時点でそれをおかげと頂けるようになる所に、信心の二段階があるようです。一段階は一生懸命お願いをする。そしておかげを頂いて神様じゃなあとわかる。又はお願いをするけれども、思う通りにはならなかったと。そこで神様も当てにならなかったと言う様な事で、信心を落としたりグズグズしたりする。それでおかげを頂いた時のその味わいというものも、忘れられずにそういう信心が一生続いておったんではです。
 しかしそういう信者が多いのには驚く位ですね。お願いをするそしてお願いを二年がかりで、しかも福岡からです。ああいう熱烈な信心をさせて頂いて、成程日々の上に試験だけの事ではないけれども、本当におかげを受けておられますよね。不治の病と言われるリュウマチ。親戚のお医者さんでどうにも出来なくなって、お参りを始めて現在、あんな健康なおかげを頂いておられるですからね。
 それもやっぱ有難い。けれども矢張り息子さんの九大入学の事が、願いであったけれども願いが成就しなくて、願いではない方は成就したわけです。その時点をですおかげと実感して、今お礼参拝が、また毎日続けられておるという事。私はここになってくると、ボチボチ本当の信者だと思うですね。お願い通りにはならなかったけれども、これもおかげだと感じておられるからです。
 もう一つそれがどうでも一つ息子の入学の事を念じ続けてお参りしようというのじゃなくて、そういうのが願いではなくて、願いの焦点というのがもっと他の所に、もっと尊い所に置かれるようになるとです。例えば私が家族の者の事の祈りと言う事は、非常にお粗末な事です。けれどももっと高度な所というか、神様がもっとお喜び頂ける所に祈りがあるのですから、家の事はどうでもよいという心持ちなんです。
 先日二十五日の研修会の時に、最後に文男さんがお話を致してありましたが、丁度その日も娘を一緒に連れて来ておりました。直美さんと言います。今度大学受験を致します。それに家内はずっとお願いに来ます。けれども文男さんは一緒にここに並んで、親子でお届けしよるけれども、この人が大学の何々ですからと言う事も、是から先でも言わんです。文男さんが願いじゃない訳です。
 そしてあんたが大学に行きたいならば、あんたがしっかり信心せにゃいかんよ、あんたがお願いに行かにゃいけんよと言う訳なんです。ですからそげな事なんかは、どうでも良いのであって事実が、大学に入ると言う事が、必ずしもおかげでない事を知っておるからです。けれども家内はやりたい本人も行きたい。だからそんならお前達、しっかりお願いせねばいけんよと言う様な態度です。
 私は思うのに信心が本当に進むと言う事は、こう言う様な状態になる事だと思うです。素晴らしいです、そういう気持ちになったら。第一願う事がなくなって来るです。本当にお礼ばかりです。というて厳密に言うてやっぱり願う事も一杯、文男さんの場合でもあろうけれども、例えば家内子供達の事ぐらいは、もうどうでもよい。こういう信心をしとるから家内子供の事を、神様が御守護下さってない筈がない事を確信してからでもあります。ですから出来た出来ない。
 はぁそりゃおかげ頂いたと、どっちの場合でも本当に実感としておかげ頂いたねと言えるわけです。願っておって願い通りにならんと、矢張りおかげ頂いたと言った様な感じがしませんけれども。信心の稽古を段々させて頂いておると、川上さんじゃないけれども、成程、右にどうぞと願いよります。けれども蓋を開けてみた所が、左だったという場合です、はぁ神様はこの左の方を下さろうとしておるんだなと、実感できておるから川上さんの、の後の信心が、私は美しい信心だと思うです。
 いうならば本当の信心だと思うです。そして後でわかる事。はぁやっぱあれもおかげであった、これもおかげであったとわかる本当の信者だ。なかなかそのところが自分の力のものに成っている様であって中々なってない。これは私自身そうです。ここん所二三人教会内の色んな修行生の事やら、教会であっちこっち不行き届きの事。例えて申しますと去年、あそこへ石油のタンクが出来ました。あれは自動車一台石油ガバッと入るようになっいる訳です。沢山な金をかけて作りました。
 出来ましたけれども石油は入らん。無責任と言えば無責任。とうとうこの一年は結局高い石油を使うた。自動車一台ずつ買うたら安くなるわけなんです。いうなら信徒会長はどうしよるか。総代だんどうしよるか。それを正義さん所でやりましたからという様な事なんかでもです。私はそれを一つもどうも言やしません。ここの修行生の場合でもそうです。色々とみんなここにお届けがあるです。誰先生がこうです、あの先生はあぁですよ、あれじゃいかんと思いますと言った様な事を言うてくるんです。
 それはほんな事じゃあるのと言うて、同調はさせて貰う。だからあんた達が気がついたなら、あんた達が注意をしてくれると良い。いや僕どんがとても注意したぐらいな事で聞きゃしませんよと。だからその方が良いなら、結局ろくそな事なんだ。だからそれがキチッと出来る事が良いならば、そう言う様な事を一つの会合なんかの時に話題にして、話し合ったら、皆おかげ頂く事になる。
 そんな事を聞かせて頂いてから、御神前に出らせて頂いた時にその事をフッと思うたら、頂く事が見事なシャンデリヤを頂くんです。電気もうこんなシャンデリヤは見た事がないと言う様な、豪華なシャンデリヤなんです。所が光が入っていない。電気がついてないというのです。どんなに形か素晴らしく出来ましても、それに電流が通らなかったら値打ちはないです。どんなに部屋に素晴らしいシャンデリヤが、それこそ目を輝かすようなものが、そこにありましても、電気が入らなかったら値打ちはないです。
 そういう教団そういう教会やらが、宗教というてもよいです。そういう宗教それこそ伽藍堂のような、行き届いた素晴らしい。梅林寺さん辺りに禅のお寺に参りますとです。それは、いつ行っても感心する事なんですけれども。第一風呂場なんか見ますと、その綺麗な事綺麗な事お掃除がですよ。それは昔の風呂ですから、いうならお粗末な風呂です。木風呂ですから大きな。けれどもその洗い桶がですね、いつでもピラミット形にピシャット重ねてあるです。飾ってあるとじゃろうかというごと綺麗にしてあるです。
 それこそあちらあたりに参りましてから、お寺さんの正面から御免下さいと言うて入って行くと、修行しておるお坊さんが出て参りまして、式台に手をピシャット八の字について、挨拶されるですね。素晴らしいと思うです。こげん気持ちのええ事はないです。うちあたりの場合はそげな事しゃなかです。けれども合楽の場合は、小さくはあるけれども、光が灯っておるという感じが致します。生きたものがあるという事です。
 けれどもそう言う所には、どんなに素晴らしいシャンデリヤであっても、光が伴ってないから人が助かるという事に繋がっていないという事なんです。私はその事を昨日思うてから、改めて結局自分自身、私自身の信心を本当なものにして行く以外にないと思いました。口でどん言うて教育すると言った様な事で、ほんなものが生まれようがないと思うた。是でよいて是で良いと言う事ではないけれども、現時点ではそれで良いと言う事。そして銘々の信心がです。
 飛躍して来た時にそして形が、そういう風に整うてきて活きたものが、是に通うた時に初め、そのシャンデリヤに光が入った時、愈々素晴らしいと言う事になるのです。成程教主様の御詠の中にありますように、“なすと言えなし得る条件恩恵の なくばなし得ず何一つとして”と言うことなんです。それを手前の所で頂くならです。例えば自分が久留米に行きたいとこう思う。まず第一健康という御恩恵がなからなきゃいけない。旅費というおかげを頂いとらねばいけませんようにです。
 久留米に行くというても、そこに御恩恵がなからなけれは行けんのですから、まず健康の有難い事、またこうして旅費を頂いておる事、また買い物に行くなら、買い物させて貰えれるお金を、ここに頂いておると言う事が有り難いのですから、そこの所にお礼を申しあげなきゃいけないと言う事なんです。けども今日の御理解の所で申しますとです。ここに素晴らしいシャンデリヤがあると言う事。
 けれどもそれに光が入ってない。そこの中に光を頂くという、光という御恩恵を受ける為に信心修行が必要だと言う事になってくるです。現在の合楽教会がです。今日是だけのおかげを頂いておる。合楽教会の場合には、これに光が伴っておるから、教会が賑あっておる、信者も助かっておるという事になります。是をもっと大きくして下さろうとする神様の働きがあるならは、その時には既にそこに入る光が出来た時に、それが成就するのだ。だから急がにゃならん、こうじゃないと言う事は決してない。
 問題は自分の手が届くというか、自分の心の光がそこに届いていないのだから、届く祈りをそういう修行をさせて頂く以外にはない。大工さんが二日間入って、改造しよります二階を、全部崩してしもうた。だから道具の置場がないから、茶室茶の間それからテレビ室に、道具をいっぱい積み上げとる。もう本当に不愉快ですいうならば。所が二日間来てからそれきり来んのです。放うからかしとる。どうした奴じゃろうかと言う事はならんのです。こちらの光がまだそこに届いとらんとじゃん。
 だからどうして大工は来んのと、私は一ぺんも言うた事がなか。どうかせんのとも言うた事がなか。こちらの光が届いていないのだから。結局自分の信心をそこに見るような思いでです私は修行させて頂く。そこに光が届くというその光の御恩恵というものがないなら、どうする事も出来ないという生き方で行くと言う事なんです。いいですかここが今日の一番大事な所です。それが光になるのです。だから修行生じゃない信者じゃない。問題は教会長私自身なんだ。
 皆さんの場合お店又は自分の家庭。お前はいくら言うたっちゃ言う事を聞かん。どうしてかと言う事ではなくて、自分自身の光がそこに届いていない事を、まず知る事なんです。形だけは出来とっても火が入っていない。そこに御恩恵を受ける為には、その為の信心がなされなければいけないと言うのです。そういう生き方がです、今日申します信心の一段階二段階。文男さんの例をとって三段階と申しましたが、三段階的な信心に入ってきた時に、初めて本当の信者と言う事になるのじゃないでしょうか。
 そこに目に余るような事がある、これはおかげじゃないのじゃない。只自分の信心が届いてないだけの事であって、自分の信心の光がそこに届く為に、私が信心をさせて貰うと言う事になってくる時に、その事は、どうした大工じゅろうかじゃなくて、そうして神様が光を愈々強烈なものに、行き届いたものにして下さる。だからその事もおかげですから、あれもおかげこれもおかげと言う事になるのです。
 教主様の恩恵なくば、何一つとして出来ないと言う事を、いつも手前のとこで頂きますよね。久留米行きの例を以って申しましたですね。恩恵なくばお参り一つ出来ないのだという事です。けども今日の私は、恩恵なくばと言うのはです、只今二階の大工の問題で申しました。そういう修行生の問題で申しました。キチッとした修行が出来ると言うか、そういう修行生が育って行くという。
 ああしなければならん、こうしなければならんと言うて、師匠が手を取って教えると言うこともあるけれども、私の生き方はそうではない。どこまでも放任主義。と言うて放任しとるというて、どうでも良い成るごとしかならんがといった様なものではなくてです。それは目に余るような事があるけれども、目に余るような場合には時分の光が、そこに届いていないのだと悟らせて頂いて、恩恵を受ける事の為の信心をさせて貰うという意味で、今日は教主様の御詠を聞いて頂いたわけです。
 信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多い。だからどれだけ御礼を申し上げても、お礼を申し上げても実を言うたら足りんのですから、大抵お礼を言い有り難い、有り難いと言いよらなければ出来んと言う事であります。あれもおかげこれもおかげと思える時に、もうあなたは極楽に行っておる事です 信心の有難い境地が開けておるわけです。そういう心を一遍に開こうとして開けるものではないのです。
 だから信心も段階を追うて、一段階二段階只一生懸命お願いしよる、お願いしよるばってんおかげ頂き切らんと言った様な程度の人も沢山ありましょう。お願いしたばってんおかげ頂ききらじゃったと言った様な人も。けれども私共がお願いをさせて頂いての事であるから、お取次を頂いての事であるから、その出たとこ勝負出た所の時点をです。是もおかげであると頂けれる信心、そこに二段階の信心がある。三段階になってくると、そんな事はどうでもよいのです。
 同時にそこに反省させられる事は、というてどうでもよいのだけれども、いつまでも例えば今の二階の事の様に、あんなに放任されておったんでは、実際は困るのですから、そこで自分の光がそこに届いていない事を悟らせて貰うて、信心の力を光を一段と進めて行こうと言う様な、そういう信心が出来た時に、初めてそれこそどうでもよいと言う事になって来る様なおかげの実感というか。
 神様の御守護の中にあっての事であるから、入学が出来るとか出来ないとか、そんな事は問題じゃないと、文男さんは思っておるだろうと思うのです。あの信心態度から。どうぞ皆さん、本当の信者じゃと仰るですから、本当の信者を目指さなきゃならん。それには只今聞いて頂いた様な内容と言うものがです。段々充実してこなければいけません。
   どうぞ。